陰陽五行でニーベルングの指環を解いてみる?

猶、五行のトリビア要らない方、行き成り3へどうぞ

1

「ニーベルングの指環」は循環の物語である事は万人の認める事ですが、
循環の物語故にこれを陰陽五行で当て嵌めると実に教科書実例になる程の符合性を持っています。

トリビア含めて進行しますのでご興味ありましたらお付き合いください。

陰陽説とはいつ頃から発生したのでしょうか。残念ながらこれを正確に記述し、立証する書物は在りませんが、「春秋左伝史」に「陰」「陽」の記述が存在するので恐らく紀元前六世紀には陰陽なる概念が存在したと思われます。
但し「左伝」における陰陽という概念は後世に確立されたような森羅万象の変化を司るほどの大それた意味はありませんでした。
元々は「左伝」の紀元前541年の項で六気の要素でしかありませんでした。
即ち、「陰」「陽」「風」「雨」「晦」(カイ)「明」で、陰の力が増せば「寒疾」を生じ、「陽」の力が増せば「熱疾」という自然の一端を表していたにすぎません。

そしてもう一つがよく引用される陰陽説そのものが易であり、易とは「連山易」「帰蔵易」「周易」の三つを指し、これらの原理原則が陰陽説という風に書かれています。


ちょっとその前に「三皇」に付いて説明させていただきます。
「風俗通義」(後漢の応劭の作)という書物によれば、その昔世界には未だ人間が存在せず、天と地が出来たばかりの頃、半身半蛇(人頭蛇身・半神半蛇)の女神がいたという。その名を女 女咼(ジョカ)という。
女 女咼と同様にまた男神も存在し、その名を伏義といった。
 彼らには直角定規と規矩(ぶん回し・コンパス)を手に持ち、宇宙の秩序を管理統治する者と言う意味があります。
 三つ目の皇は神農といいます。
薬や漢方薬に長け人身牛頭の姿をしているとされてます。
また人々に炎を与え、火の徳を掲げたということで別名「炎帝」と言います。
 
この三皇の一人である伏義の作成した「河図」までさかのぼるとされてます。
周時代に書かれた「繋辞伝」にて「河出図。洛出書。聖人則之」の一文を後漢時代劉 音欠(リュウキン)が引用してからがポピュラーに。

河より図が出た。
揚子江より書物が出た。
と言う意味です。

ここで問題にするのは「洛書」の方なのでもう一個河図の方を知りたい方は陰陽道の本を手にすることをお勧めいたします。



問題にする洛書の起源伝説では夏(か)王朝の初代皇帝禹王(うおう)黄帝から位を譲られた事柄に関連し、王位を譲った理由は禹王が洪水を治めたという治水の実績を評価したためで、実はこの時、洛水(揚子江)から神亀(じんぎ)が現れたといいます。

これが伝承により異なり錯綜するのですが、ある伝承では治水の際書物が掘り出されたとあり、また別な説では亀が書物を背負って現れたとあり、さらに背中に九の文様の亀が現れたとあります。

いずれにせよ洛水から九つの模様が描かれたものが現れたということです。

実は洛書は3X3の三次魔方陣になっていて



四柱推命や奇問遁甲なども総ての根源にこれが存在します。即ち易の根源ともいえます。

というのが一般的な書物に書いてありますが此処から一寸脱線させてもらいますと
カッバーラでは数の秘教を「ゲマトリア秘数術」と呼びます。
即ち数字は究極的には一桁しかない。これも道教も全く同じ発想です。10は1、11は2・・・100は1、101は2となります。
二桁以上の数を一桁に換算する行為は9で割った余りを計算するに等しいということです。
具体的な計算法は一桁になるまで各桁の数字を足していきます。
123ならば1+2+3=6
789ならば7+8+9=24でさらに2+4=6となります。

(余談ですが巷の占いで生年月日を数字の一桁になるまで足すのはこの一桁変換を行っているわけです)

此処で三次魔方陣を考えると各列、行、斜めの3つの数字を足すといずれも合計が15一桁換算すると1+5=6
ゲマトリアにおいて6はこの世の数、神を意味する完全数7に対して人間を意味する数となります。
 
実はこの世を示す三次魔方陣は「生命の樹」に隠されていて、「生命の樹」のおいて、隠されたセフィロト○ダアトを地獄世界の入り口を示す最下位のセフィロトIを除いた9つのセフィロトの配置が3行3列の魔方陣を作ります。
 
つまり亀の甲羅に刻まれた「洛書」、すなわち三次魔方陣は秘数術で表現された「生命の樹」を背負っている言い換えることが出来ます。


そも五行とは何を意味するのでしょうか?

『書経』の一遍の「禹貢」と『春秋左伝史』の原則的意味を書き出します。

「禹貢」には六府という言葉があり、六府の六とは五行と穀をあわせた数字であり、府とは倉を意味しています。
総じて、六府とは天が人間に与えた、人間の生活を支え養うといった程度の意味になります。

「左伝」には五行を五材と表現し、五材とはその字の如く五つの材料のことで、人間生活に必要な材料としています。

もともとの五とは人間が生活を営むにあたり絶対に欠かす事の出来ない材料、道具の類が五つあるとして、それを水火木金土をしてシンボライズしたものである。が、しかし、五材なるものが具体的にどのようなものなのか語られていない。

五行の行とは何かという問題が生じます。
五行について書いてある解釈本には

「五行とは天に在りて五気流行し、地に在りて民之を行用する」



記されてます。
「天」とは「上帝」「帝」「上天」「皇天」「天帝」とも表現され数ある神の中で最高の神である。そしてその役目は森羅万象を司りあらゆる物を監視とされてます。

五気とは水火木金土を示し、「流行」の「行」とは廻る、「廻り廻って変化する」と言う意味がある。

また「行用」の「行」は「行う」「利用する」「使う」事を示す。

つまり原初的五行の意味とは五行の「五」とは水火木金土を指し、五気・五材とも呼ばれ、人間にとって必用な材料、道具、倉の類だった。その水火木 金土が天の監視の下、天上という空間を絶え間無く駆け巡っており、この五気を天が人間に与えることで、人間は五気を材料、道具として、生活に役立てる事が 出来るという意味になります。


(余談ですけれど嘗ての出雲大社では是が具現化されていたりしますが本題から大きく逸れるので割愛させていただきます)


此処で五行相剋と五行相生について述べたいと思います。


今でこそこの相生、相剋こそが五行説の中心ですが元々はそのような観念は存在しませんでした。
しかも、相生、相剋は同一人物によって説かれている訳でもありません。
 最初に相剋説を唱えたのは前四世紀末諸子百家の一派陰陽家の鄒衍(すうえん)と言われます。そして、その後200年後に(前一世紀末)相生説が劉向(りゅうこう)劉 音欠(りゅうきん)親子によって唱えられます。


相剋説の説明に入る前に時令思想について説明をします。
時令思想は、五行説が成立するよりも以前に存在し、季節と為政者の政治の在り方を一致させるものの見方考え方です。
つまり、為政者が春夏秋冬四季折々に応じて何を行うべきかが事細かく決められており、もし、これに反するようなことが在れば忽ち国は乱れて乱が起こると信じられていました。

この時令思想と五行説を結びつけたのが鄒衍です。
彼は一方で春夏秋冬という季節観から循環という発想を得て他方で
五行の水火木土金から相互関係上、五行循環が成り立つことに気がついたのです。


五行相剋と五行相生が続きます。

鄒衍が発見した五行循環とは五行の配列を「書経」に記載されている水火木土金から木土水火金へ並べ替えたものです。一見単純な並べ替えのようですが、この並べ替えには大変な意味がこめられています。
五行の配列を木土水火金にすることで、木は土を剋し、土は水を剋し、水は火を剋し・・・という五行循環を作り上げてしまったのです。

ちなみに「剋する」とは「勝つ」ことであり、即ち「やっつけること」であります。

木は土の栄養を吸収してしまうので、土にとって木は相性が悪いものとなり、力関係で言えば木が土に勝つ(剋する)関係となります。

土と水では土を水を堰き止め、清らかな水の流れを澱ませる。つまり、土は水に勝つため水にとって土は相性が悪いものと成ります。

水は火を消し去るため、火にとって水は相性が悪いものとなります。

火は金を融解させるため、金にとって相性が悪いものなります。

最後に木は斧(金)で切られるため、木にとって金は相性の悪い天敵となります。

鄒衍の唱えた五行相剋説が壮大故に王朝の「徳き(はたらきと読む)」として政権交代正統性として利用されます。
一陰陽家の鄒衍の唱えた説が如何に絶大なる影響力を及ぼしていたことが推し量れます。

前漢末 期劉向(りゅうこう)劉 音欠(りゅうきん)親子が五行相生説を唱えます。
(注、
但し一般的なモノの説明に過ぎませんので実際は込み入った事情が存在したとも考えられます。
鄒衍は既に時令思想と五行説の融合を果たした時に、すでに相生の原型まで辿り着き、春、夏、土用、秋、冬、を木、火、土、金、水に当て嵌めたという説です。
王朝簒奪の「徳」ということを正当化するため、劉親子が声高々に相生説を唱えたため、彼らの名前がいつしか相生説の起源に結びついた可能性も在ると言うことです。)

相生説とは木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生ずることです。

もう一寸詳しく説明を加えると、

木が火を生じるとは、木から火が生まれるということである。まことに木は良く燃え、木と火の相性もまことに良きものといえる。

また、木が燃えることで灰が生じる。この灰が土に准え(なぞらえ)、灰は火によって生じるゆえに、火と土の相性はまことに良きものなる。

さらに、地中(土)には多くの鉱物資源(金)が埋蔵されている。土が金を生じるという意味で、土と金は相性よきものとなる。

最後に金属(金)は冷えることにより、その表面に水滴(水)を生じる。それ故、金と水は相性良きものとなる。

之にて図のような五行相剋相生の五角形が完成します


2

次に十干について述べたいと思います。

古代中国人は月の満ち欠けを観察することにより、月の周期が29日か30日になることを知っていた。
この月の周期を一ヶ月とし、一ヶ月を二分(15日を一単位として)して半月。
さらに、一ヶ月を三分して10日を一単位とすると旬になる。(之が上旬、中旬、下旬と呼ばれます。)
また、一ヶ月を七日単位で括ると「週」という発想になります。

人間が数を数える際、最も、原始的にして、便利な方法が指を折ることで、実際、中国では指を折って日数を数えたと言うことが文献にも残されています。

両の手の10本の指を折って10日を数え、其れを三回繰り返せば一ヶ月となる。つまり、両手の指の本数が、一ヶ月を区切る単位と成る訳です。

当初指は「浣(澣)カン」と表記されていたが、いつしか干と称されるようになった。

指10本の「十」と両手の指を意味する「干」を合わせた造語が「十干」となり、
即ち本来の位置の「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」(こうおつへいていぼきこうしんじんき)とは

右手
親指 ⇒甲
人差指⇒乙
中指 ⇒丙
薬指 ⇒丁
小指 ⇒戊

左手
親指 ⇒己
人差指⇒庚
中指 ⇒辛
薬指 ⇒壬
小指 ⇒癸


ということになります。

もうちょっと続きますので、ご容赦を・・・

これが五行に当て嵌めると
木の属性が

甲乙

火の属性が

丙丁

土の属性が

戊己

金の属性が

庚辛

水の属性が

壬癸

となります。

そしてさらに陰陽(兄弟(「えと」と読みます。)で区切ると

陽の属性

甲丙戊庚壬

陰の属性

乙丁己辛癸

これらのことを視野にいれると読み方が

甲(きのえ(木の兄⇒木の陽
乙(きのと(木の弟⇒木の陰

丙(ひのえ(火の兄⇒火の陽
丁(ひのと(火の弟⇒火の陰

戊(つちのえ(土の兄⇒土の陽
己(つちのと(土の弟⇒土の陰

庚(きんのえ(金の兄⇒金の陽
辛(きんのと(金の弟⇒金の陰

壬(みずのえ(水の兄⇒水の陽
癸(みずのと(水の弟⇒水の陰

と言う具合に変化します。



陰陽配当後の十干にはどのような意味が有るのかと言うと『五行大議』(隋の簫吉(しょうきつ)著。日本の陰陽寮のテキストとされる)と『和漢暦原考』(石井光致著。1829年(文政12年)成立)から説明すると




「万物符甲」の状態を指す。種子が未だ固い殻に覆われている状態を意味し、語源的には甲の字を宛がう。
コウとは「匣:はこ」や「檻」を意味し、匣は物を封じる道具でり檻とは生き物を閉じ込める道具のことです。
何れにせよ、何か固くて頑丈な物に大切なものが封じ込められ、覆い隠されて状態を「甲」と表現する。



「万物生軋(しょうあつ)」の状態を指す。「生軋」の「軋:きしる」は「きる」と言う意味があり、この世のあらゆるものが固い殻(甲の状態)を突き破る状態を意味している。
軋の「乙」と言う字を宛がう。



「万物著明」「万物顕著」な状態を指す。つまり丙とは「柄」のことであり、「炳然」(炳=ヘイ・ヒョウ:あき・らか)の「炳」(あきらか)の字を宛がう。
その意味する所は、成長の著しい様、成長の度合いが顕著な状態を意味している。
恰も、中身のタップリ詰まった大きな鍋を細い柄の部分で持ち上げるが如く、転じて雪の重さにものともせずに、重みに耐えて更に鎌首を持ち上げ成長する芽の如き状態を意味している。




「万物丁壮」「万物休止」の状態を指す。
これには解釈が二つあり、丁を万物丁壮と解釈する場合。
「丁壮」とは壮年を指し、正に働き盛りの年を指す。今日では壮年を30歳前後から50代前半まで視野に入れている。この解釈だと、丁はとは正に勢い盛んな状態となる。
対して万物休止・停滞と解釈すると、丙という成長が著しい状態が一旦止み、一呼吸、一休みする状態を示している。
(因みに「万物丁壮」を称えているのが『和漢暦原考』、『万物休止』を称えているのが『五行大義』、権威、格付けからみると後者のほうに軍配が上がるが、語源的な成り立ちが不明瞭となる。語源的なものを踏まえた解釈となると前者が一歩リードしている。




「万物茂盛」の状態を指し、盛大に生茂る状態を意味している。
前項の「万物停止」を受け継ぐと成長し続けて一旦力を蓄える事で更なる成長を極めた状態ともいえる。
「万物丁壮」を受け継ぐと成長をし続け、更なる成長の果てに、漸く成長が極まった状態とも解釈できる。
何れにせよ、花が咲き乱れ、樹木の成長がピークを迎えた事を意味している。そして、この「茂」と言う字に「戊」を宛がう。




万物皆整う状態を指す。つまり、枝葉の細部まで曲りくねり乍ら、形を整える、成長を完成させる状態を意味し、成長が極まり樹木の形が定まった状態と解釈できる。この「整える」という意味の「紀」に「己」の文字を宛がう。



「万物改更」の状態を指し、成長した状態が此処で改まり、変わると言う意味が込められている。満開に咲き乱れた花が散り、樹木に固い実が稔った状態と解釈できる。そのため「更る(かわる)」と言う文字の変わりに「庚」の字を宛がう。



「万物新生」の状態を指し、今までとは違った新しい段階に・新しい状態へ至ると言う意味が込められている。花の状態から実をつける状態へ移る段階を「庚」というならば、その実をつけた状態から又新しい世界へと至る段階が「辛」といえる。
そして「新生」の「新」の字に「辛」の字を宛がう。



「万物任養」の状態を指し、即ち「懐妊」「妊娠」を意味している。新たな種子が固い殻の中に次へと繋ぐ命を育んでいる状態といえる。そして、「任養」の「任」の文字に「壬」の字を宛がう。




「万物揆度」の状態を指し、種子が何時芽を噴出すべきかを見定め(揆(はか)っている状態)またそのための準備と淡々と整える状態を意味している。そして、「揆る」を「ハカル」と読ませ、「揆」の代わりに「癸」の文字を宛がう。



というように十干とは植物の成長段階を10の側面に当てて捉えたもので植物の成長に万物の生成変化を重ねることによって、
森羅万象の謎解きを試みたわけです。



十二支の発生とその陰陽五行配当まで説明してしまうと脱線甚だしいので止めておきますね。

取り敢えず図のみ挙げておきます。

3

此処までのトリビアにお付き合い頂きありがとう御座います。

上記の知識を頭の片隅に入れて置くと以下に展開するキャラクター相関関係が判り易くなると思います。

お待たせ致しました。

ニーベルングの指環に出てくるキャラクターをこれに当て嵌めてみたいと思います。

水の要素の第一存在としてはラインの娘と指定します。
原初の存在としているエルダも之に準じ水の要素と指定します。

エルダが水の陽(みずのえ(壬))とし、陰陽続くとするとラインの娘は水の陰(みずのと(癸))と言う存在になります。

引き続き神々は水から変転した木という存在になり、
ヴォータン以下神々は木の属性であり、木の陽(きのえ(甲))とします。
人間と言う存在は神に似せて創ってあるので木の陰(きのと(乙))

ワルキューレで人間を作ったとき神々の協力があった想定できる言葉が第二幕第二場フリッカの語りで存在しますが、

その言葉の裏側にはエルダが関与していないのである意味六つの要素で出来上がっています。
ヴォータン、フリッカ、ドンナー、フロー、フライア、ローゲ
(人間の意味する数字は「六」なので此処も意味深いです。)

数ある北欧の神々の中でこれだけしか出さない御大の意思(簡略化というのも在ったでしょうが)は試行錯誤で練った分だけ占術とかカッバーラに近づいているので、
この点を踏まえて解釈できるのが陰陽五行というのが不思議な気がします。
(九星気学は日本独自のものですが・・・)


そしてローゲ
「半神」という定義付けが実に心憎い表現であるのが面白いです。

火の要素であることは間違いないですがローゲという存在はある意味神々の次世代の姿(超越した存在)であるかもしれない訳です。
取り敢えず「神」というカテゴリーで首根っこを捕まえておこうとも解釈できます。

半分と言う意味は「劣った・出来損ない」と言う意味に解釈されがちですがこう考えると上の存在をも想定出来る恐ろしい言葉に成り代わります。


一巡目は陽で展開するため火の陽(かのえ(庚)とします。
とするとワルキューレ達はどんな存在なのでしょうか?
彼女達は早い話「指環奪還」の為に存在しているため、神々の変転したものと考え、そうすると属性は「木生火」で「火」

そして火は金を剋する(コントロールする制御する)役目があります
二順目ということで陰⇒火の陰(ひのと(丁)とします。


火から生ずるのは土

北欧神話的から持ってくると原初の巨人ユミルは其の侭大地と化しているので巨人族の属性は土、土の陽として「つちのえ」(戊)
ニーベルング族は神話的には元がドヴェルグ(ユミルに蛆虫が涌いたという存在)なので土の陰「つちのと」(己)

ユミルという存在は元々ムスペルハイムという炎の国から送られてくる熱によって氷から派生(誤謬が在るかも・・・)したものです。
ある意味火からの転生です。

ローゲというのは巨人族、ニーベルング族にとって何らかの恩恵を与えてくれる存在とすれば
巨人族のヴァルハラ城建設交渉やら、ニーベルング族との交渉には正にうってつけ(!)

当然土から生ずるは金

黄金も当然土から派生します。
特にラインの黄金は特別な存在とも考えられます。

なぜニーベルング族がラインの黄金を知らない、取り込んでいないのかのかと問われれば
ニーベルング派生以前に黄金は存在していたと考えられます。

という事でラインの黄金は金の陽(かのえ(庚
そこからの裏返しという事で指環は陰で二順目、
つまり金の陰(かのと(辛

そしてこの指環のお話に絡むのは霊剣ノートゥング
これもエレメントとしてカウントすると金の陽(かのえ(辛

契約の槍の存在はどちらかと言うと複合的な要素が高いので(形状ゆえに木と金の役目をしている)取り敢えず保留

実はハーゲンは金の属性に入ります。金の弟(かのと(辛 ではないかと・・・

五行は生産するという意味合いもあるのでニーベルング族(土)の希望という形でハーゲンが(金)存在するという定義です。
(土の要素であるアルベリヒから神々を剋するための存在としてハーゲンがあるわけです)
それと同じ事がブリュンヒルデとヴォータンの関係にも当て嵌り、ワルキューレ第二幕第三場、第三幕第三場で引用される台詞を其の侭置き換えれば神々の黄昏第二幕にも為り得るわけです。
ある意味ハーゲンはブリュンヒルデの陰画であり、ジークムント、ジークフリートよりも正解に近いような気がします。




以上で陰陽五行の配置は完了。

4


では順番に「ラインの黄金」から

御大のストーリィでは黄金と娘達の関係は黄金はラインの川底にあっては単なる遊びモノに近いものですが、五行でこの配置を考えると実に深刻な問題 を抱えており、肉付けという要素に於いてこれからの演出及び、映画化、漫画化というテーマであったら面白い「モノ」を提供してくれると思います。

黄金の有無と言う問題はラインの水と娘達にとって死活問題となりうるからです。
「金生水」という事情が存在し、活力、浄化、若さと美貌の消失と直接繋がり、黄金無き川は澱み腐り清浄な流れの川がドブ川になると言う事です。
 従ってラインの娘が執拗に黄金に拘るの理解できるのではないでしょうか?
 
そういう意味ではシェローの「かみたそ」で薄汚れた娼婦のラインの娘という解釈がいかに的を得た表現であるかが分ると思います。

(私もそれに類して初期設定で似たようなことを考え、ラインの娘の「ラインの黄金」の時の衣装と「かみたそ」衣装は色違いにして考えたのですが、今一つまらないのと、黄昏のジークフリートの変節振りが浮き彫りにならないので没にした事が在ります。 )

映画にした場合、
特殊映像で「神々の黄昏」で指環を手にした瞬間からラインの娘が若返る、綺麗になるというエンディングを仕込んだら面白いだろーな・・・
演出だったら薄汚れた茶色と灰色の衣装から鮮やかな白に変わる演出でも面白いかも・・


本来ならばアルベリヒはラインの娘を甚振れる立場だった(土剋水)のですが、黄金の力で張り切っちゃっている(力を与えられている状態)娘に手が出せないものだからその腹癒せに力の源の黄金を奪うという行為も説明できます。

神々が木、ニーベルング族、巨人族が土と定義すると「木剋土」(土の養分を木が吸い取る)が当てはまり土属性にとって神々は搾取されるだけの忌まわしい存在になります。
この間にローゲ(火属性)が入ると神々の言うことを利くのは嫌だが見返りがあるので(火生土(火が燃え尽きて土を生じる))まあ
やるかの結果がヴァルハラ城だと。

 ニーベルハイムでの遣り取りもローゲ(火)が在ってこそニーベルング族(土)と神々(ヴォータン)が直接的な戦闘にならずに済んだともいえます。

指環(金)の存在が神々(木)を剋することの出来るとすればニーベルング族は強力な武器を手にしたと言うことも成り立ちます。

で一方剋される側の神々が指環を持つということはどういう事になるかというと・・・
外に在っては危険極まりない存在であっても、内に取り込んでしまえば神々は”死角無し”勝手気侭自由奔放やりたい放題ということになります。

ニーベルングの指環的ストーリィから見れば契約の不自由さから開放され権力は揺ぎ無いものと化すと考えると当に核心を突いているものではないかと思われます。

ヴォータンの権力の源の槍ですが、穂先が金の気を帯びているのでミーミルの泉(ノルン達が管理している泉)(水)属性から引っ張り出してきたともいえ、 ヴォータンは木属性なので水からの恵みが其の侭素直に現れ金属性を持つことにより支配権を(弱みが無くなった)得たといえます。
金⇒(金生水)⇒水⇒(水生木)⇒木

(だが、水を生ずる金を失ったことにより循環が停止したためトネリコは枯れた)

ということはヴォータンが直接降りて行った場合、平和的に黄金を得た可能性があるわけです。

5

引き続きワルキューレいきます。

第一幕
注目すべきものはトネリコの木とノートゥング
このトネリコの木とノートゥングの関係は文字通り視ると当に金剋木(トネリコの「木」属性がノートゥングという「金」属性に刻された状態)そのものであります。
 ですがこれをもう一寸読み解くとニーベルングの指環のみ現れるフラクタルな現象に当て嵌めることができます。

 つまり剋される木として人間の「ジークムントとジークリンデ」いっぽう金は契約の槍(先端が金)によって押し付けられた運命という風に解釈が出来、押し付けられた運命よりの脱出、束縛から逃れ自由な精神の取り戻しとも取れます。
 そこでは取り決めた約束事とは無縁ゆえ二人は愛し合ってしまったということも説明できます。
(ヴォータンの計画ではそこまで予測できなかった、予想外の出来事がおきてしまった、が、それはそれで面白いではないかと彼は第二幕で思ったことをフリッカに説明しています。)

そして木は火へと転じるわけですが、ワルキューレ第二幕第三場にてのジークリンデの錯乱の時トネリコが斃れるという表記がありましたので、炎によって崩れ落ちる木というのが、はからずしも、在る意味的を得ていたのかもと思いました。

第二幕では神々の定めた桎梏から自由になった者達がノートゥングという(木の存在(神々、人間)に対し脅威を与える)「金」属性の脅威を感じたフリッカの恐怖からでた揺り戻しとも云えます。
 予測不可能な存在(制御できない存在)はともすると自分達の存在を脅かし、蔑ろにし、取って代る存在になりうるとフリッカは思ったのでしょう。
彼女の予測は正解に近く、神々という特権階級の崩壊を防ぐという意味では正しい選択です。
 そういう意味でフリッカがジークムントを殺せと指示しているわけではなく

 霊剣から力を奪え
 手の中で砕けるようにせよ


といっている点において、御大は極めて慧眼ではないかと・・・

五行で解釈している私にとって身震いするほどです。

「金」属性が無くなってしまえば、有象無象の「木」その他人間存在と変わらなく神々に仇成す存在では無くなるという事です。

ワルキューレの属性としては「神々の願いの発露」「指環奪還」「指環の脅威から守るための剋する存在」という事で相生の存在として「火」とさせて進めます。

もしフリッカの横槍が無いと想定した場合、五行解釈でヴォータン、ブリュンヒルデ、ジークムントはどのように見えるかというと、
「金」属性を纏ったジー クムントは略無敵状態でフンディングを退ける事は間違いないです。
応援にワルキューレを派遣させるというのは(この戦いに於いては)あまり意味を持ちません。
(フンディングの武器の力を剋し、ジークムントが無傷で帰還すという意味においては役に立ちますけれど)
ではどういう感じになるかといえばヴォータンがブリュンヒルデに対してのプレゼントもしくはリクリエーションという位置付けになります。「木生火」

「常日頃頑張っている様子だし、時間あげるから弟(ジークムント)と遊んでこい!」

と考えれば楽し気なヴォータンとはしゃぐブリュンヒルデの様子が窺えるのではないでしょうか。

所がフリッカと契約を結んでしまった故に遊ばせる予定が一転仕事となり、弟を殺すという合い矛盾する状態をブリュンヒルデが強いられてしまう訳です。

「金」を剋する事ができるのは「火」ノートゥングを破るのは本来ならばブリュンヒルデで無ければならない訳です。

所がブリュンヒルデ(姉)自身はジークムント(弟)にはこう説明しています。

>今や、その剣を授けた本人が貴方の死を定めたのです。
>そして、彼が剣の力を奪うでしょう。

命を受けたことの反復のようですが、剣の力を抜くことが出来るのはブリュンヒルデですから、御大自身が意図してブリュンヒルデの責任転嫁とも読めます。
責任転嫁の発言ですがこれがブリュンヒルデ自身の遠見予知とも掛かったりします。

その後五行に当てはまらない重大なイレギュラーが発生する訳です。

ブリュンヒルデが仕事を怠ったという事象はヴォータンにとって、ノートゥングを剋する手段を失ったという事であり、本来は手が出せないはず、なわけです。
 ブリュンヒルデもそう思っていた節があります。

ところが実際は砕かれてしまったのですから、ヴォータンが秩序の為に全力を支払い、また其れを守るため、秩序を破ったとも云えます。
 
 五行的に勘繰るとこの時点で金剋火の通り、何かを代償にローゲの介入(密約)とか、新しき「火」の属性を緊急に作り上げ、其れを使役したとも考えられます。

ブリュンヒルデの契約不履行、反逆罪、摂理を曲げた罪は殊の外本人が考えていたよりも大変重いともいえます。

とはいえこの代償は大変重く、ヴォータンに圧し掛かるのは想定できます。


第三幕
以前ワルキューレの名前の配列が3x3に当て嵌まり綺麗に三次魔方陣になり、その名前配置から色彩を振り分けたと説明しましたが、

以下のように考えて属性説明をしていきます。

ワルキューレ全体の属性は「火」
ワルキューレ個々の属性は五行分割でき、九星に分類する。

一般的な感じとしては生まれ年が「火」
生まれた日付が五行各々と理解してください。

以前の図は単純に数字を置き換えたものですが
もう一寸進化、展開させたいと思います。


色彩無し
八白金星 一白水星 六白水星

単色
三碧木星 五黄土星 七赤金星

複合色
四緑木星 九紫火星 二黒土星


(状況⇒色彩無し)
グリムゲルデ、ヴァルトラウテ、ジークルーネ

(武器⇒単色)
オルトリンデ、ゲルヒルデ、シュヴェルトライテ

(身に寄り添うもの⇒複合色)
ロスヴァイセ、ブリュンヒルデ、ヘルムヴィーゲ

ゲルヒルデという槍を意味し、ヴォータンの大切にする武器が中央に収まる仕組みになり、対極に存在するはヴァルトラウテとブリュンヒルデということになます。
九星で割り振ると
ヴァルトラウテが一白水星、ブリュンヒルデが九紫火星と配置され、
九星を考えない真ッ更の状態(最初と最後)でも、考慮にいれても、(水剋火)ヴァルトラウテがブリュンヒルデを諌める役目を与えられているわけです。


6

ジークフリートに行きます。

土の属性を表すものとして、物象の主たるものは

蛙、蛇、死体

です。

これも又不思議に符合するのが怖いです。


蛙⇒アルベリヒ

蛇⇒ファフナー

死体⇒之については「神々の黄昏」にて説明させてください。

ジークフリートは木属性ですから土属性のニーベルング族との関係は木剋土が当て嵌まり、
ジークフリートにとっては見返りは在るけれど、一緒にいては楽しくない相手であり、
ミーメにとっては搾取されるだけで苦しみしか与えない鬱陶しい相手ということが見えてきます。

ノートゥングの保持者としてニーベルング族と云う者を考えると土生金の相生の関係になり、ノートゥングの受けた傷を癒すという意味において最適の存在だったりします。
(必要(再生)な鬨が来るまで、機会を待っていた?)

金の気を使役できる木の存在は在る意味無敵状態(瞬間最大という意味ではヴォータンの指環を手に入れたと同じ位かそれ以上)であり、
ファフナー及びニーベルング族は土の気ですからそれ以上にまして、
ジークフリートをどうにもこうにも対する手立てが無く、
只倒されてゆく(滅びる(別な言い方をすれば転ずる (金の気に移る))訳です。

指環によって固定化してしまった世界がジークフリートによって動き出すとも解釈できます。
 是は神々にも同じことが云え神々も流動化の波をうける事を意味し、
またフンディングの屋敷にあるトネリコの樹木にノートゥングが抜けたことにより「木」が転じ「火」に移る事象とワルハラの炎上と言う位に各事象が大小様々にフラクタルに重なります。
もっともジークムントも「木」(人間)属性でしたのでジークフリートにとって代わる可能性もありえる訳ですが。如何せん、フリッカの恐怖心から発生した揺り戻しの犠牲になってしまったわけです。

水の気の事象というのは水を含むのは間違いないですが、幼い子供という意味もあります。

ジークフリートが「アフォ〜」である必要が此処に在ります。

木の属性でも水の気の支配段階である「子供」「無邪気」でしたられば金の気であっても剋するよりもむしろ力づけると考えるとジークフリートの天下無敵の強さが判るかと。

(そう考えるとラインの黄金第4場にてヴォータンが指環を自らのものに出来なかった(取り込め無かった)のは大人の分別(すでに水の気の段階(若さに直結←これもワルキューレ第二幕第二場で語られていました)を過ぎていてしまった)を持っていた為と思えます。

かつてヴォータンの若かりし頃、槍を手に入れたと同じ事がノートゥングとジークフリートの間にあるともいえます。指環を手にした事とは異なるが指環の存在によってこの事象がもう一度繰り返されたとしたならば、ジークフリートは二重に強められた存在故にヴォータンは太刀打ち出来なかったともいえま す。

ジークフリート⇒子供という結び付けは上記の解釈もありますが、日本民俗学的解釈でも在りえます。
 喩えば妖怪です。
妖怪は人ではない。それ故人の形をした妖怪は角があったり、嘴があったり、目が一つだったりします。
ところが見た目が殆ど人と変わらない場合成人でないケースが多々あります。老人や子供タイプがそれに該当します。
水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」でいえば子泣き爺、砂掛け婆が老人型で猫娘や鬼太郎が子供型となります。
 日本の妖怪と言われる人間型は圧倒的に子供型が殆どです。
「座敷童子」や「竜宮童子」「水神童子」、「笛吹き童子」とか(差し詰めジークフリートは喇叭吹き童子?)
それで、面白いのは喩え成人であっても子供の名前を付けられるのが在ります。
「鬼」がそれで、有名どころでは「酒呑童子」や「茨城童子」です。何れも屈強な体格をしていながら「童子」と呼ばれています。

「童子」という名前にはどこか人間の能力の埒外を表す呪祖があるのではという意見を目にした事があります。

子供は一人前ではない。大人の社会からでは人間ではない。大人では守らなければ成らないルールの外に子供は居る。たとえルールを破っても、許される存在。
 江戸時代にあっては大人の象徴である丁髷(ちょんまげ)を子供はしなくてよい。髪は自然に伸ばし放題。所謂(いわゆる)かぶろ頭(御河童(オ カッパ)ともいう)。成人でかぶろ頭にしていれば只者では無い。社会のルールの外に居るアウトサイダーで化外の者と考えていた・・・


 実はニーベルングの指環を妖怪に置き換えて一寸だけいじったことがあります。
例えばラインの娘が河童、ヴォ―タンが天狗、ワルキューレが烏天狗という具合で、ジークフリートが丁度良いのが見つからず其の侭で終わってしまいましたけれど。

ジークフリート最後になります。

ここでジークフリートはブリュンヒルデという知恵(分別)を得てやっと人間に成り得る訳です。

この辺に関し古今東西の指環解釈本に色々書いてあるので余り多くを語りませんが・・・

フロイト的な解釈ではジークフリートという抜き身の剣(男根という意味もある)がブリュンヒルデという鞘(当然女陰)を得て安定した存在と成ると言うのがあります。

7

神々の黄昏行きます。

ジークフリート(木・属性)から指環(金・属性)の所有がブリュンヒルデ(火・属性)に変わる事に由って指環の呪いが刻され、(火剋金)無効化し、黄金の指環は其の侭ラインの川底に還るはずであった。
 ワルキューレ第二幕第二場のヴォータンの苦悩を善く解っていたはずの賢い娘は愛に溺れ知性を失ってしまった状態という風に解釈できます。

(所謂(いわゆる)色呆け?)

ブリュンヒルデの黄金の呪いに拠って曇った知性は次の段階に彼女を置きます、つまり土属性へと転化仕舞いつつ在ったともいえます。
 五行という関連からみると土というのは金からみると力を産み出す存在であり土からみても居心地が良いという相生の関係になります。
 そうなるとブリュンヒルデにとって黄金は執着すべき対象であり、また此処に到って火刻金という相剋によって力を弱められ瀕死寸前だった指環が相生という力関係に転化し呪いが蘇ったともいえそうです。
 以前に一寸だけ触れましたが土という表す事象は死体と云うものを示します。

面白いと思えるのはジークフリート第三幕第三場にてジークフリートとブリュンヒルデの二重昌の一番最後に歌われる

彼と共に生き、彼と共に死にましょう。

Erb' und Eigen, ein' und all'
leuchtende Liebe, lachender Tod!
(光り輝く愛に、微笑む死に唯一にして総てを捧げまし。
注!!↑自己異訳なので充てになりません)

この時点で死つまり死体という事象が絡め取られていたりします。

つまり指環に執着を見せた時点でブリュンヒルデは既に殆ど死んでいると・・・

指環と深く癒着してしまった彼女は如何しても死ななければならぬという運命を背負う事になるわけです。

そう云う意味では(五行的見方で考察すると言う事)ジークフリートの指環の死を介しない喜びの譲渡が大変な出来事であるがが怖気を呼び覚ます程ですが、
如何せん、小説的、戯作的、流れでは余り取り上げられ重要視される事が無いと言っても過言ではないでしょう。

 
 面白いのは五行で解釈すると、もし〜であったならという仮定の話は違和感なく紡げてしまう。
 例えばギービヒの館に辿り着いたジークフリートがもし指環を持っていたとしたらジークフリートの死角がノートゥングと指環に守られていて、ハーゲンの策略に乗らないであろうと、考えられる。

続くギービヒの館でのメインで流れる契約の動機の第一幕第ニ場ではノートゥングの死と解釈できます。

言葉の綾、言霊としての神の剣、霊剣と言い表すノートゥングと考えてみると
隠れ兜の動機に導かれる自己欺瞞の霧は魂を冥く導き、ノートゥングがジークフリートの分身であるゆえ霊剣は 理想を持たない単なる殺戮を目的とした物に成り下がり、それと同時にジークフリート(属性木)も魂的にハーゲンという土・属性(ニーベルング族)から生まれた金・属 性に殺され(剋され)、自由なる者が契約という欺瞞の枷に囚われ、当に第一幕第二場はノートゥングの死と言えます。

但し是も五行とか霊とかの言霊を解釈に入れて上でしかありません。それ故、何故ジークフリート死に際でハーゲンにノートゥングを奮えなかったかの理由が見えてきます。
つまりノートゥングは死んでいた、もう役に立たない効力も持たない屑もしく張子の虎であることが窺えます。


副管理人さんのナナオ様のBBSに是に付いての「ギービヒ家特殊処理班」が在りますので、ご興味御座いましたらどうぞ

手前味噌の解釈ですが、私の絵巻庫には「鞘」という存在を描いてます。

ギービヒ家の一員となるためのノートゥング用の鞘を持ってこさせるハーゲン


テキスト的には鞘と言う言葉は指環の中では神々の黄昏第二幕第四場以外在りませんが是の存在を表す事に拠って第三幕第二場でノートゥングのが使い物にならなくなった事を意図的にやってます。

剣が男根、鞘が女陰と考えて頂ければ一連の事項が見えてくるかと思います。

土・属性に変質してしまったブリュンヒルデはジークフリートにとっては最早征すべき存在へと変わり、

木剋土 の公式通り

所有者 略奪者
アルベリヒ(土  ヴォータン(木
ファフナー(土  ジークフリート(木
ブリュンヒルデ(土 ジークフリート(木

   唯一例外が

ファゾルト(土 
ファフナー(土

ですが
但しファフナーとファゾルトの場合 同じ土の象(巨人)であっても兄ファゾルトは感情の迸り(愛)を重きをおいている事から
ラインの娘と同じ水の象を被っていると推察します。
しかし、指環にとっては是は居心地が良いとは言えない位置関係にあります。
水の象にとっては金の象の働きが力を与える方向へ向かう相生の位置にあ り、力が抜かれてしまう指環にしては土属性の方が力を与えてくれるのでそちらの方が居心地が良いという意思の存在が垣間見え、それ故に指環はファフナーを 選んだと。
 フライアの瞳(指環の輝き)に心奪われたファゾルトとファフナーの関係はこのように矢張り相剋の関係に落ち着きます。

土剋水

ファゾルト(水  ファフナー(土

続く第三幕では
ブリュンヒルデという魂の火を消され、ノートゥングの火が消えたジークフリートは最早、英雄ではなく(指環の金・属性を制御する火・属性(魂)が無いため)指環に隷属し、力を奪われる動き回る死体(魂火・属性を通り越して土属性)と化してます。
 そうなるとラインの娘との関係も当然拗れざる終えなくなり、
ラインの娘とアルベリヒを其の侭なぞる形に導かれます。

水剋土
所有者 掠奪者
ラインの娘(水 アルべリヒ(土
ラインの娘(水 ジークフリート(土

(↑この場合ジークフリートにとって彼女達から獲たいのは彼女達の 肉 体 のみ)

相生の関連で考察すると以前のジークフリートだったらどうなるかと五行で解釈するとこの様な形になります。

木生火

譲渡者          所有者
ジークフリート(木   ブリュンヒルデ(火 

是もまた相生の関係により、
水生木が生じ

ラインの娘(水  ジークフリート(木

この場合ジークフリートは彼女達の 友 愛 を得る為に指環の存在に重きを置かない彼にとってあっけなく手放して仕舞う事があったと思われ、間違いなく指環はラインの娘に帰ってきたと言う事になったでしょう。

面白い事にジークフリートは指環を持たせてライン川を旅させていないのが御大の伏線に仕掛けて在るのかと思われます。

ジークフリートの死に到り、ブリュンヒルデの愛つまり(魂)火・属性を取り戻した彼は、肉体は滅んでも彼自身の魂と共にノートゥングの復活を果たすわけです。
(ジークフリート死の行進曲には剣の動機が高らかに鳴り響き、回顧と共にノートゥングの復活を意味させる趣があるようです)
 このノートゥングの復活が第三幕第三場にてのハーゲンの指環の奪取を拒絶するように伸びた時に剣の動機を伴うのには御大の計算上の事でしょう が、場面的にはそれほど冴えなくとも、ジークフリート自身の汚れた魂の浄化(復元)が果され、それによってノートゥングの復活と結びつけると、ある種の恐ろしさ、 慧眼さ、に全面降伏せざる終えません。

 その奇跡に目の当たりにしたブリュンヒルデも自分自身に残る火の属性を奮い立たせ、(これもまた復元)指環と対峙し、自ら炎に転じ、浄化の炎、火の属性によって暴威を振るった指環を指輪へと弱らしめます。これによって指環はそのものの金・属性と化し、水へ還ります。
 ハーゲンもまた金・属性故にラインの娘に浚われる事によって、
この世界より去って行きます。
 
 最後に火の浄化だけでなく水の浄化というプロセスを踏んだニーベルングの指環というものが陰陽五行で解くと恐ろしく符合を踏み、方やフラクタルな事象(雛型があり、完成形が必ず起こる)縦横無尽に含んだ物だと云う事が若干でも伝えられたでしょうか?