ジークフリートの追記

鍛冶の事。
刀鍛冶というのは、古来外国も日本も同じく片方の視力が無い詰まり片目です。
是は何故かと言うと片方の目は自分の生活のために保護し(片目をつぶる)もう片方は常に炎と直面し続けなければ成らないからです。ある意味職業病といっても差し支ないでしょう。

 この点を踏まえてジークフリートもミーメもよっぽど片目にしようかなと思いましたが、場面的に片目の神を打ち倒すのは、完全なるものの方が説得力があるのでそのままにしました。
 で、それに代わるものとして遮光用のサングラスを着けました。スリットが入ったメガネタイプが本来の姿なのですけれど、是では表情が現れんので、現代風に弄ってみました。
 親方とは違うのだよという意志の現れを匂わせたかったのですが、工業革命をまさか取り入れるわけにはいかなかったので(シェローみたいに)此処までということです

SWのライト・セイバーとノートゥング

 SWクロニクルを読みますとジュダイ騎士団の修行の最終段階においてライト・セイバーは自作しなければなりません。映画のなかではマス・プロダクツのような扱いで喩え一般人が持っていても実質的に使えないゆえにジュダイ騎士団専用兵器になってます。その原点が残った台詞としてはジュダイの復讐でダース・ヴェーダーがルークに対し「良い出来だ」といってルークのライト・セイバーを握るシーンです。このシーンははっきり言って予備知識がないと、お前いったい何を言ってるのかと問い詰めたくなります。
 それ以前にライト・セイバーを自作せねばならないといった伏線が幾重にも引いてあったらこのシーンは父と息子の成長とを掛け合わせた熱いシーンになりえたのですが、まあ、実際はさらりと流されてしまいました。
 これがジークフリートのように自らの力で鍛え上げた自分自身の自己確立を含めたエピソードが在れば肉厚がずーっと出来たような(代わりのシーンがヨーダと修行のシーンですけれど)きがします。

(ガンダムであっても、モビルスーツはハード・ウェアのようですが、その基本型学習コンピュータを組んだのはアムロ自信なことを忘れてはいけない。カミーユにしても、ゼータを設計したのは彼自身であることも付け加えておきたい。)

 ジークフリートの場合、剣というのは深層心理学的にはずばり男根です。ワーグナーの場合ジークフリートの成長過程を鍛冶の歌に託し、少年から男への成長過程と自己確立、自立心その他を賑々しく練り合わせ華々しく歌い上げています。ストーリィ的に見るとりわけ重要でない流れになりますが、成長を追えない劇としては、ある意味肝の部分です。これでジークフリートは少年ではなく男として、見てくれと。
 抜き身の剣は寄ると触ると他人ばかりではなく自分をも傷つけます。それはジークフリートそのもの姿のようなものです。
(まあ、もっともジークフリートは其れを自覚できないのですけれど)

 そして鞘の存在があってこそ剣は安定し、力を発揮し得るものと考えます。鞘も女陰の象徴でもあるのですから。ブリュンヒルデが在ってこそのジークフリートと。そう考えるとジークフリートとは、単なる単純馬鹿の竜退治ではなくなってきます。ブリュンヒルデとの出会いによって人間が完成された(欠けていた人間的感情の覚醒)一人の少年からおとなへの心理劇に近いものが流れます。
 たかだか鍛冶の歌に之だけ重要な意味があるわけですから、返す返す、SWは実に惜しい物を捨ててしまったと言わざるおえないです。
 (これからのエピソードで出てくる可能性が無きにしもあらずですが)
世間で之だけヒットしているのだから、今更何を言わんかやですけれど。
そういう意味ではワーグナーの奥深さを感じずにはいられません。

 

ジークフリートの元伝説の追記について。
ワーグナー以前のジークフリートは竜の血を全身に浴びてそれ以後無敵になったと在りますが、それだと小鳥の声を聞けるようになったというエピソードが入りません。原作に忠実だと心臓を食すシーンをさらに加えなければなりません。
 最初ワーグナー流の解釈の持っていき方に昔は激しく反発したことがあります。
「全然カッコよく無いじゃん」と。
「肩に菩提樹が落ちてこないと様にならないよ」と。
正直、北欧神話、ゲルマン神話(ニーベルンゲン・リート)から、ジークフリートを見知った方ならそう思うのではないでしょうか。
 所が指環四部作の一エレメントと考えると総てが纏まりを魅せ黄昏に収束して行く事を実感したことがある人間にとっては、この変更が実に的を得た表現であると言えるのではないでしょうか。
 確かに劇場では血だらけになった主人公を表現するには粗不可能ですし、その後の小鳥の言葉を理解できるエピソードだって削除対象になりえます。ところが、血を嘗めたという仕草を加えることにより無敵にはならなかったが、小鳥の言葉を聞き分けられるようになると仕組みの説明が加えられ後世に続く演出家の材料と成り得たわけです。音楽的にも楽器の表現から、人間の声に移ります。男ばかりの声の中にきらきらと女性の声が栄え渉る感じです。余計に美しく感じてしまいます。逆に下知識が無く素直に入っていけたら一つの縦糸と、横糸の組み合わせが美しく交差しているのをみつけるでしょう。そういう意味でジークフリートは指環の中で破綻を見せない際立ち纏まった作品といえるでしょう。逆にいえばその他の部分は破綻をきたし、突っ込みどころ満載でありながら強引に音楽で押し切った作品とも言えなくは無いですが。
強引に音で押し切れるなんて、なんて素敵・・・・しかも、無限旋律を伴って。
 
それでも抵抗ある方は折り合いをつけるまで時の流砂にまかせるしかないですね。

 

ジークフリートの時間の推移について。

ジークフリートではファフナーを殺害する前から一晩中歩き回っていて、丸一日過ぎ、さすらい人とやり合う所で夕方⇒夜。明け方にブリュンヒルデと出会うのですけれど。
丸二日以上、飲まず、食わずなので何かしら可哀相だと思いブリュンヒルデと出会うところは引き続き黄昏にしてます。
お話的にジークフリートで完結する場合は何の躊躇いも無くト書き通りに朝にしたでしょうが、後に続く「神々の黄昏」の混迷と滅びを予感させるための伏線(伏線まで言い切れない所が弱いけれど)で、朝日成す太陽よりも、闇を迎える太陽の方が相応しいかなと思います。
 ただしここに流れる音楽が「神々の黄昏」の「ジークフリートラインの旅」のように果てし無く明るかったらその限りでは在りませんでしたが、個人的主観で物申すとワーグナーはト書きではそう書いてあるが黄昏の結末にむかっての音的伏線を含ませたような素振りを見せているような気がします。

ジークフリートとブリュンヒルデの掛け合い漫談

 一寸観ると言葉の遣り取りが煩く「早くとっとと抱いちまえよ」と思うことがありますが、文章的に呼応に成っていて(多分に説明的な部分もあるけれど)優しくブリュンヒルデの心を解き解しています。エロチックな言葉を許してもらえば服を一枚一枚剥ぎ脱がし、裸にさせる感じです。
これもまた二重構造になっていてブリュンヒルデの鎧をノートゥングによって剥ぎ取りここで又彼女の心の鎧をジークフリートの情熱(性欲)で剥ぎ取ると言う仕組みです。
 ジークフリートは絵的にはそこそこ盛り上がりますが、劇場的に観ると指環の中で一番不人気です。しかし観念的素材で見るとジークフリートは(ワルキューレよりも)完成されたもののような気がします。